戻る 京都府の怪異伝承45件
藤原忠文の怨霊( 末多武利神社)
藤原忠文が平将門討伐に向かったが、着く前に将門は討たれていた。 藤原実頼の意見により、忠文は恩賞をもらえなかった。忠文の死後、実頼の子らに災いが起き、忠文の怨霊を末多武利神社またふりじんじゃに祀った。
愛宕山の鬼女(一条戻り橋)
愛宕山の鬼女が夜な夜な現れ、悪事を働いていた。渡辺綱に腕を切り落とされた。
悪鬼(如来院)
飛鳥時代、麻呂子まろこ親王が朝廷から鬼の討伐を命じられてやってきた。神仏の加護により鬼を討伐した親王は、七つの寺を開いた。そのうちの一つ仏性寺の如来院では、親王の使った鞭(むち)が伝わっている。
天岩戸(日向大神宮)
天照大神が隠れられたとされる天の岩戸がある。
石神(岩上神社)
江戸時代、中和門院の庭に移された岩が、帰りたいとすすり泣いたり、子供に化けたりしたため、僧侶に相談した。引き受けた僧侶が岩を祀り、その場所が有乳山岩神寺となる。現在は岩上神社。
牛尾観音の大蛇(大蛇塚)
1313年、内海浪之介景忠が大蛇を弓で倒したと伝えられる。その際、蛇の毒に侵されたが、地元の僧から薬を処方されて助かった。退治したとされる場所に大蛇塚がある。
牛鬼(貴船神社牛一社)
貴船大神は仏国童子を伴として天界から降りてきた。後に貴船神社の神職の家系になるが、その姿は4代目までは鬼(牛鬼)であった。
牛祭り(広隆寺)
紙の仮面をつけた摩多罹神が牛に乗り、赤鬼、青鬼の仮面をつけた者たちを引き連れ、周辺を回る。京都三大奇祭の一つと言われているが、現在は不定期開催。
蛭子神社
北金岐の恵比寿社を村人が川に流したところ、急に波立ち御神体が川を遡った。それをこの地の村人が見つけて祀ったもの。
絵馬の猿(ご香水神社)
具合の悪くなった猿回しに、猿がご香水を汲んで飲ませた。猿回しは回復し、喜んだ猿が奉納の舞を舞った。その様が絵馬になって残っている。また、絵馬の猿が抜け出して付近の田畑を荒らしたため、網が被せられたと言われる。
お菊稲荷
青山近江守幸澄の妾と家臣の不義密通から養子青山鉄之助が自害し、青山氏は転封させられた。この事件を元にして、青山氏にまつわるお菊と皿屋敷の話が今に伝わると考えられる。かつてはお菊井戸もあった。
鬼笛(京都 朱雀門)
博雅はくが三位さんみが朱雀門の前で笛を鬼と取り替えた。博雅が亡くなった後、帝が笛を吹かせようとしたが誰も音を出せなかった。音を出せた浄蔵という僧に笛を朱雀門で吹かせたところ、鬼が笛を褒めた。
怪鳥(京都御所)
後醍醐天皇の建武元年、紫宸殿に怪鳥(以津真天いつまで)が現れ、弓の名手である真弓広有まゆみ ひろありが射止めた。このような怪異が現れるときは世が乱れるときであり、南北朝の騒乱が長らく続いた。
鬼門除けの猿(赤山禅院)
赤山禅院せきさんぜんいんの猿は御所を守る鬼門除けの猿。夜な夜な動いて悪さをしたため、金網で囲われている。
清盛手植えの楠(若一神社)
平清盛が植えたとされる松。この木に触ると祟りがあるとされ、京都市電を作る際にも不幸が続き、今でも西大路通は松を避ける形に曲がっている。
恋塚(恋塚寺)
袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠が、誤って袈裟御前を殺してしまったため、袈裟御前の供養をするための塚があり、恋塚と言われる。近くの浄禅寺にも恋塚はある。
鯉塚(浄禅寺)
袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠が、誤って袈裟御前を殺してしまったため、袈裟御前の供養をするための恋塚であると一般には言われているが、大きな池に住んでいた鯉の妖怪を殺して埋めた塚であり恋塚は誤りとする説がある。同じ話が恋塚寺にもある。
小町穴目の薄(補陀洛寺)
小野小町終焉の地。美人で有名だった小町は井戸に映った自分の老いた姿を嘆いて亡くなったという。死後に弔う人もなく、ドクロの目からすすきが生え、「あなめ(目が痛い)」と言っていたと言われる。
貞任峠
安倍貞任あべのさだとうは「前九年の役」(1051-62)で討ち取られた地方氏族。亡骸は祟りをなしたため、分けて埋葬された。ここには首が葬られている。
猿ヶ辻(京都御所)
御所の鬼門方向を欠けさせ、猿の木像を置いて鬼門封じとしている。猿は夜な夜な悪さをしたため、金網で覆われている。
静原(静原神社)
大海人皇子が近江朝廷側に一時押された際、この地で心も体も静かに休ませたため、静原という。
酒呑童子(大江山)
平安時代。源頼光が、大江山の酒呑童子という鬼を討ち取った。
生六道(嵯峨薬師寺)
小野篁は六道珍皇寺にあった井戸から地獄へと行ったが、嵯峨野にある井戸から戻ってきた。福正寺に井戸はあり、地獄で会った地蔵菩薩を模した小野篁作の地蔵も祀られていたが、福正寺と井戸は今はなく、地蔵は嵯峨薬師寺にある。
徐福伝説(新井崎神社)
秦の始皇帝に不老不死の薬を探すように命じられた徐福が、この地にたどり着いたと言われている。徐福が祭神になっている。
白羽の矢、ヒヒ(河阿神社)
白羽の矢が立った家は生娘を差し出す習わしがあった。生贄を求めていたのはヒヒであり、娘の身代わりになった武士に退治された。娘を入れた長持を置いたとされる石の台が残っている。
白狐のたたり(稲荷大杉大明神)
このあたりには昔から人を化かす狐が住んでいた。明治38年頃、山陰鉄道のトンネル工事が行われたが、その人夫に恋をした白狐が居た。しかし。狐は人夫に殺されてしまい、その後、工事で犠牲者が出た。その場に二匹のヘビがいたため、狐と山の主である蛇の祟りだという話になり、鎮めるために大杉明神が建てられた。
大蛇(閼伽井護法善神社)
修行中の峯延ぶえん上人を大蛇が襲い、雄の大蛇は捕らえられた。雌が供える水を絶やさないことを誓ったため、二匹の蛇は助けられ、閼伽井護法善あかいごほうぜん神社に祀られた。
大蛇(深泥池)
『小栗判官』のエピソードに、深泥池に住む大蛇が小栗判官を誘惑し、子を成したというものがある。
撞かずの鐘(成相寺)
1609年、鐘を新たに鋳造するときに「子供はいるが寄付する金はない」といった女の赤ん坊が、鋳造に巻き込まれる事故が起きた。出来た鐘を撞くと赤ん坊の鳴き声が聞こえるため、鐘が撞かれることはなくなった。
土熊(大虫神社)
栄胡えいこ、軽足、土熊つちぐまという鬼が大江山に居た。聖徳太子の弟である麻呂子まろこ親王が、銅鏡を身に着けた犬を連れ、討伐に向かった。栄胡、軽足を退治したあと、土熊を見失った。犬の銅鏡が照らし、土熊を打ち取ることが出来た。その銅鏡は、火災にて消失している。銅鏡を身に着けた犬を模した狛犬が、大虫神社にある。
徒然草の麓の神社(高良神社)
兼好法師が記した徒然草に、仁和寺の法師が石清水八幡宮と間違え、お参りして帰ったと書かれている社。以前は立派な建物があったがあったが、焼失しており今では小さな社となっている。
鉄輪井
裏切った夫を恨み、鉄輪をかぶって丑の刻参りを行った女がいたが、満願の前に井戸の前で死んだ。その井戸を鉄輪井と言い、この井戸の水を飲むと縁が切れると言われる。悪縁切りとして有名。
飛神明(吉田神社)
1487年に伊勢の外宮が消失したが、その時失われた神宝が吉田山に降臨した。吉田兼倶かねともは帝にそれを密奏し、吉田神社を伊勢神宮の代わりに神道を束ねる地位に付けた。
不成の柿(平重衡の首塚)
平清盛の息子である平重衡しげひらは、奈良を焼き討ちしたため、奈良の衆によってここで首をはねられた。死の前に柿を食べたことから柿の木が植えられたが、実はならなかったという。現在は何代か変わっており、実はなる。首を洗った池もあったようだが、現在は確認できない。
新田義貞の首塚(滝口寺)
南北朝時代の武将、新田義貞は北陸で討ち取られ、首が京まで運ばれた。妻であった勾当内侍こうとうのないしが首を奪い、滝口寺で供養したと伝わる。
濡髪大明神(知恩院)
知恩院の御影堂が出来たため、このあたりに住んでいた白狐が住処を追われた。霊巖れいがん上人の夢に白狐は濡れた髪の童子姿となって現れ、その窮状を訴えたところ、「濡髪大明神」を住処として与えられた。その礼として、知恩院を火から守る証として傘を置いていった。その傘は今も残っている。
万勢伊さん(宝鏡寺)
かつては皇女が入寺する寺であった宝鏡寺ほうきょうじは、人形の寺として知られている。本覚院宮に可愛がられたために魂が入り、夜回りなどを行って三代に渡り仕えた「万勢伊さん」という人形の話が伝わる。
へそ石(六角堂)
平安京に遷都するとき、道を通そうと計画したところに六角堂があった。桓武天皇が祈ったところ、北へ五丈(15メートル)移動したと伝わる。元の場所である六角通にへそ石と呼ばれる石があったが、現在は六角堂の境内にある。
またげ石(梅宮大社)
奈良時代、この石を檀林だんりん皇后がまたがれ、子宝に恵まれたという伝説がある。石は祈祷を頼めば見ることができる。
身代り不動明王
木曽義仲の軍勢に攻め入られたとき、後白河法皇の代わりに当時の座主の明雲が矢を受けた。これを不動明王が明雲の姿を借りて守ったとされ、身代わり不動尊と呼ばれるようになった。
鞭薬師(福寿寺)
麻呂子親王が鬼を追っていた際、吉田氏が道を案内した。このとき、鞭薬師を下賜され、名を鞭氏と改めた。薬師を本尊としていたのは福寿寺。参考URLはEUCでエンコードしないと見ることはできない。
矢の根地蔵(古世地蔵堂)
鵺を退治した源頼政の守り地蔵であり、右手には錫杖の代わりに矢を持っている。
八幡明神(鍬山神社)
1165年、天岡山に誉田別命ほむたわけのみことが、弓矢を持った武人として現れた。鍬山神社の八幡宮に祀られている。その後、二つの面が降ってきたため、鍬山神社に収められている。
楊貴妃(清凉寺)
二尊院によると、楊貴妃のために玄宗皇帝が送った釈迦・阿弥陀像を清凉寺に置いた。その後、墓所が二尊院にあると分かったため、2つの仏像を二尊院に送ることになった。しかし、立派な二体の仏像を残すように清凉寺が求めたため、仏師に二尊を作らせ、一体ずつ分けることになったとされる。
霊光(離宮八幡宮)
貞観元年(859年)、山崎で神降山に霊光が見られ、岩清水が湧いたため、この地に石清水八幡宮が建立された。離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたる。
情報は古い場合や誤りがある可能性があります。もし現地へ赴かれる際は、公式の観光情報などをご参考ください。