今回、調べるネタ元になったのはこちらの記載です。
後土御門院の延徳元年3月に、京都の吉田山に太神宮が飛び移ってきたので、本当のご神体である神宝が光を放って降りたと吉田兼倶が密奏し、ここに神明社を建てた。
(神宝が降る) | (シンポウガフル) | 怪異・妖怪伝承データベース
神明社は元々は伊勢の神霊を
伊勢の勢力が南北朝期に南朝方を支援したせいで、権威が落ちてしまったのが原因なのかもしれません。
このことを利用し、かつて非常に繁栄した社があります。東山にある吉田山にある吉田神社がそうです。伊勢神宮からすると非常に迷惑な話で、吉田家は伊勢から敵視され続けたそうです。
現在は節分に行われる鬼の豆まきで有名な吉田神社ですが、近くにある銀閣と比べると、京都以外での知名度では、少し劣るといったところでしょうか。
このことについての経緯で言えば、1486年に伊勢の外宮が兵火で焼けてしまった。ところが、1489年の3月と10月に、消失したはずの伊勢の神宝が光とともに吉田社の大元宮に降ってきた。
そのことを吉田兼倶が時の帝(後土御門天皇)に密奏した結果、宝物は本物と認定されました。
そして伊勢から神威の移った吉田社が神道界の中心となり、吉田神道という思想のもと、江戸幕末まで繁栄したとのこと。
その大元宮というのは、八角形の独特な造りが特徴的な建物です。
大元宮の説明には、以下の通り八百万の神全てを祀っているとの記載があります。
始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、全国の神々を祀る社として、様々な御神徳をお授け下さいます。
斎場所 大元宮
しかしながら、吉田神社のHPにはこの密奏についての記載はありません。
では、どの資料を当たればいいかですが、「宣胤卿記」にありました。
「宣胤卿記」というのは中御門宣胤の日記ですが、延徳元年(1489年)十月十六日の日記に、この密奏の内容が載っています。
訪れたのが平成30年。台風の後ということもあり、境内にも被害が見られ立入禁止の場所も多かった影響からか、人気の少ない神社といった印象でした。
ここが伊勢を凌ぐほどの権勢を誇っていたことは訪れた後に知ったのですが、こういう事は知ったあとで行きたかったですね。
今回の場所はこちら京都府の怪異をまとめたのはこちら
怪異・妖怪地図 - 京都府